IN MARKETING · ISSUE 356

(仮ビジュアル)石造りの建物の広い階段を、黒いロングコートに白いワイドパンツの女性がひとりで下りてくる写真● 12 SEC
Visual: ALIFE Editorial

ナッジ。既定を変え、並び順を変え、ひと手間を足す——言葉ではなく置き方で背中を押す設計のことです。行動経済学の看板とともに広まり、科学的に裏づけられている、と紹介されてきました。

その裏づけの代表が、2022年に出た大規模なまとめの平均値でした。ところが同じ年、その数字は二度動きます。一度目はその論文自身の訂正で、二度目は偏りの補正をめぐる反論で。この号は、その二度を追います。効かせ方の手引きは書きません。

ナッジ(nudge)は、2008年の Nudge という本で広まった考え方です。選択を禁じも強制もせず、選択肢の並べ方や既定を変えて行動をそっと導く——初期設定でどれが選ばれているか、何が目に入る場所にあるか、ひと手間をどちら側に足すか。この本まで届いたのは書誌の記載だけなので、ここでは考え方の出どころとして置き、効果の証明は別の研究に負わせます。

(仮ビジュアル)夜の高層階の窓辺に立ち、暗いガラスに自分の姿を映しながら街の明かりのほうを見ている、黒いスーツの女性
押しているのは言葉ではなく、初期設定・並び順・目立たせ・ひと手間の置き方のほう。 Visual: ALIFE

では、その置き方はどれくらい効くのか。ここから先は、数字がどう動いたかの話になります。2022年、ナッジの効果を束ねた大規模なまとめと、その平均をめぐる反論が、同じ雑誌の上でぶつかりました。

まとめの平均は、どこか一つの現場で測られた値ではありません。ばらばらの研究の効果を、計算でまとめ直した値です。だから、どの研究を入れるか、発表されにくかった研究をどう見込むかで、同じデータからでも別の平均が出てきます。これから見る三つは、すべて同じデータの上で起きたことです。

01訂正で、平均は0.45から0.43へ。2022年に Proceedings of the National Academy of Sciences 誌へ出た大規模なまとめは、選択の環境を変える介入の効果を束ね、平均を d=0.45(95%信頼区間 0.39〜0.52)と報告しました。d は差の大きさを表す値で、0なら差なし、大きいほど差が大きい向きです。同じ年の訂正で、この平均は 0.43(同 0.38〜0.48)に、効果量の数は450から440に改まりました。訂正の理由の一つは、いまは撤回されている2012年の論文から来た4つの観測を除いたことです。

02偏りを見込むと、0.08〜0.31。効果が出た研究ほど発表されやすい偏り——出版バイアスを見込むと、平均は動きます。同じ2022年に同じ誌へ出た短信は、そのまとめ自身の感度分析では、補正後の平均が 0.08(強い偏りを仮定)から 0.31(中くらいを仮定)のあいだになると整理しました。どちらが正しい値かは、ここでは決まりません。補正の手法が結論を左右する、という状態です。

03別の3手法では、−0.01〜0.08。同じ短信の書き手たちは、同じデータに別の3手法を当て、平均を −0.01(標準誤差0.02)・0.07(同0.03)・0.08(同0.03)と算出しました。そのうえで元の値をこう評しています——“We argue that this effect size is implausibly large”(この効果の大きさは、ありそうにないほど大きいと私たちは論じる)。まとめ側は補正前の平均を掲げ、短信はそれを退ける。この号は、どちらかを正しい値として採りません。

(仮ビジュアル)ベージュの空間で、黒い石の天板を、ガラス・金属・漆の3本の脚が支えているテーブル
訂正で少し、偏りを見込んで大きく、手法を変えてさらに。同じデータの平均です。 Visual: ALIFE

平均が手法で動くという状態は、日常の言い方のほうにも出ます。

01「行動経済学だから効く」で止まっている。この一言は、その平均がどの手法で出た値かを飛ばします。上の三つは、同じデータから出た別々の平均でした。考え方の出どころと、いま手元にある数字の出どころは、別に数えられます。

02うまくいった事例の置き方を、写している。写せるのは置き方までで、効果の大きさまでは写りません。短信は、強い偏りを仮定した補正後の平均 0.08 のまわりで、95%の研究の効果が ±1.00 の幅に広がると書いています。平均の外側は、平均より広いということです。

03効かないのを、押しが弱いと読んでいる。平均が小さく、まわりが広いなら、効かない日があること自体は平均と矛盾しません。押しを強める前に、いま自分がどんな押しを置いているかを数えるほうが先に来ます——というのが、この号の読み筋です。

(仮ビジュアル)縦に3分割された写真。左は乱れた寝具のベッド、中央は窓の外へ目を向ける女性、右は玄関の床のコートと鍵
出どころ、写し取り、押しの強さ。三つとも、数字がどこから出たかを飛ばしています。 Visual: ALIFE

ここまでの平均は、買い物の売上で測ったものではありません。2020年に Marketing Science 誌へ出た現場実験のメタ分析(299の効果量)は、健康的な食の選択を促す手を束ね、全体で d=0.23、単位に直すと 1日あたり−124 kcal と報告しました。働きかけの焦点が認知(0.12・−64 kcal)から感情(0.24・−129 kcal)、行動(0.39・−209 kcal)へ移るほど、値は大きくなります。これは食べる量の話で、売上や来店の効果ではありません。

もう一つのまとめは、効果を推定した174本の論文を集め、意思決定の一部を自動で済ませるナッジの平均が、ほかより d で0.193 大きいと報告しています。ただし著者たちは、決め手についてこう書いています——“a critical ingredient for impact may also be the match between the type of nudge and the nature of the behavior to be changed”(効果の決定的な要素は、ナッジの種類と変えたい行動の性質の噛み合わせでもあるかもしれない)。推測の形のままです。全文まで読めたのは7点のうち3点で、読めていないものについては書きません。

動いたのは人の心ではなく、
数え直したほうだった。

最後に、線を一本だけ引きます。面倒を減らして選びやすくするのと、在庫があるのに「残りわずか」と出して焦らせるのとでは、やっていることが違います。前者は相手の理解の上に置く押しで、後者は誤解を作って選ばせる手です。この号は、後者の手順も、法的な当否も書きません。

数字の話と線の話は、地続きです。平均が小さくて広いと分かっているほど、足りないぶんを強い仕掛けで埋めたくなる。押した分だけ相手の信頼を使う、という前提を先に置いておくのは、そのためです。

TRY IT TODAY

  1. 01PICK

    自分の案内やページの導線を一つ選ぶ。申し込みの流れ、並べ方、掲示など、手元で見られるもの。

  2. 02LIST

    そこにある押しを書き出す。初期設定、並び順、目立たせ、ひと手間の置き方。

  3. 03MARK

    それぞれに「選びやすくしている」か「誤解を作りうる」かの印を付け、後者の数だけ書き添える。

10分。相手を試したり反応を測ったりする必要はなく、自分の導線だけで完結します。これは研究結果そのものではなく、記録の単位を作るためにALIFEが提案する実践入口です。

2022年に薄れたのは、ナッジという考え方そのものではありません。薄れたのは、一つの平均を「科学的な裏づけ」として掲げられる状態のほうでした。数字は、訂正で少し、偏りを見込んで大きく動いた。残ったのは、原理ではなく、原理への期待の大きさのほうが削られたという事実です。

持ち帰るものは、効かせる裏技ではありません。自分の導線のどこがもう相手を押しているか、という地図のほうです。地図は平均より小さく、そのぶん自分の売り場に合っています。

SECOND LAYER · FULL SYLLABUS「人の心理で背中を押すには?」を、もっと深く学ぶ。→
HOW TO READ THE NUMBERS数字の読み方

この号に出てくる統計の言葉です。数値は原典のまま、意味だけをほどいています。

効果量
差や関連の「大きさ」を、単位の違う研究どうしでも比べられるようにした共通の物差し。「効果があるか」ではなく「どれくらいか」を表します。
95%信頼区間
推定値の「ばらつきを見込んだ幅」。同じ研究を何度もやり直したら、結果の多くがこの幅に収まると期待できます。幅が0(差なし)をまたぐときは、明確な差とは言い切れません。
メタ分析
同じテーマの研究をたくさん集めて統合し、平均的な効き目を推定する方法。1本の研究より安定しますが、集めた研究の質と偏りに左右されます。
出版バイアス
「効果が出た」研究ほど論文として世に出やすい偏り。これがあると、統合した平均値が実際より大きく見えます。

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本コンテンツは学習目的であり、診断や治療の代替ではありません。